着床遅延とは
着床遅延とは、読んで字のごとく、着床が遅れることです。
ヒトなどでは、受精卵が分化してできた胚は、子宮に入ると子宮内膜に定着、つまり着床し、この着床をもって妊娠したとされます。
着床した胚はさらに分化していき、やがては産まれる時の形になっていきます。
しかしある種の動物では、胚が胚盤胞という段階でほぼ発育を停止し、子宮内を浮遊し続けることで、着床が遅れます。
これが着床遅延です。
ちなみに、胚の発育が止まることを「胚の発育停止」、「不連続な発育」と呼び、これは植物にも見られます。
植物の中には、種子の状態で場合によっては何年も土壌内に留まり、一時的に温度が変化するなど何らかの攪乱により初めて発芽する種があります。
このような種の種子の集まりは、埋土種子集団、シードバンクなどと呼ばれています。
さて、着床遅延のメカニズムは種によって様々ですが、大きく2つに分けることができます。
1つは、ある条件下でのみ起こる着床遅延です。
例えば、今赤ちゃんがいて授乳していれば、母乳の生成を促すプロラクチンの分泌により、胚は発育をほぼ停止します。
このような着床遅延は有袋類や齧歯類などに見られます。
もう1つは、必ず起こる着床遅延です。
この場合、授乳しているかどうかなどは関係なく、受精すれば必ず着床が遅延します。
そして、日照時間など何らかの刺激により、胚は着床し発育を再開します。
このような着床遅延は食肉目に分類される動物や、カンガルーの一部で見られます。
着床遅延は、胚ではなく母体にその調節因子が存在します。
例えば、着床遅延が見られないフェレットの胚を、着床遅延中のミンクの子宮に入れると、胚は発育を停止します。
逆に、着床遅延中のミンクの胚を、妊娠したフェレットの子宮に入れると、胚は発育を再開します。
胚に着床遅延の調節機能があれば、着床遅延しない動物の子宮に入っても胚は発育を停止したままのはずです。
上記のような実験結果は、胚ではなく、母体の方に調節因子が存在することを示唆しています。
着床遅延のメリット
様々な種に見られる着床遅延ですが、なぜこのような生理機構が淘汰されずに残存しているのでしょうか。
そこには何か適応的意義、メリットがあるはずです。
例えば、先ほどの植物の例を考えてみましょう。
植物が繁茂して林床に届く光が少ない場合、発芽しても順調に成長できる可能性は低いです。
一方、台風などの災害で木が倒れたりすることでできる隙間、ギャップに反応できれば、十分な光が確保されるために生存の能性が高くなるかもしれません。
そこで、ある種の植物、特に先駆樹種は、発芽せずに一定期間種子のままで土壌中に存在し、強い光や光の質の変化、温度の変化に反応して発芽するという機構を発達させたのでしょう。
条件的な着床遅延の場合はどうでしょう。
今授乳している赤ちゃんがいる場合、そこにさらにお腹の中で子を育てるとなると、母親にとってはかなりの負担になります。
母親に十分な体力がなければ、最悪の場合授乳が不十分となり赤ちゃんを死なせてしまうかもしれないし、さらにはお腹の赤ちゃんすらも死なせてしまうかもしれません。
母親の命も危険でしょう。
このような事態を避けるために、着床遅延は有効なはずです。
また、赤ちゃんが育ち、独立してすぐに着床を始められれば、繁殖率は上がるかもしれません。
効率的に繁殖をするという意味でも、着床遅延は効果的です。
では、必然的な着床遅延の場合はどうでしょうか。
クマを例にとってみましょう。
ツキノワグマ、ヒグマ、アメリカクロクマは、夏に交尾、秋に飽食し、冬には穴にこもります。
冬ごもりの間、クマは何も食べず、排尿排泄も行いませんが、メスはなんと出産をします。
なぜこの時期に出産するのか疑問に思われるかもしれませんが、この時期に出産するのが最も適応的だったのでしょう。
冬の出産・育児も大変でしょうが、春は冬ごもり明けで体力がなく、夏はエサの欠乏でエネルギー収支はマイナスになる。
秋には飽食する必要があるため他に時間をさけません。
そんな季節での出産・育児は冬以上に大変なのでしょう。
ではここで、着床遅延の役割を考えてみましょう。
クマの実質的な妊娠期間(着床から出産までの期間)は約2カ月なので、着床遅延がない場合、冬に出産するためには秋に交尾しなければなりません。
秋はエサが沢山あり、着床後に新たな命に注がれるエネルギーは十分に蓄えられます。
しかし、秋は冬ごもり前の大事な飽食の時期。どこにいるかわからない交尾相手を探している場合ではありません。
こんな時、着床を延期できる能力は役に立つはずです。
準備ができるまで着床は延期されるので、交尾は可能な時にすることができます。
また、クマの場合、着床遅延は母子共倒れを防ぐ役割もあるのではないかと言われています。
十分な蓄えがある時にだけ着床することで、産まれる前、後の子が栄養不足で死んだり、子への投資のために母親も栄養不足で倒れたりするのを防いでいるかもしれないというのです。
このように、着床遅延がない場合と比べると、着床遅延はよりメリットがあると言えそうです。
季節変化と必然的な着床遅延
肉食動物において、着床遅延はイヌ(型)亜目に分類されるイタチ科、スカンク科、クマ科、レッサーパンダ科、アザラシ科、アシカ科、セイウチ科に見られます。
このうち、イタチ科には、着床遅延が見られるものと見られないものが存在します。
オコジョやテンなど着床遅延するイタチ科動物と、イイズナのように着床遅延しないイタチ科動物にはいくつか相違点があります。
例えば、着床遅延する種の方がしない種の方よりも大型で、寿命が長い傾向にあります。
更に、ファーガソンらの研究によると、特に季節性(蒸発散量の季節変化)の有無が着床遅延に関係しており、季節間の差が大きい地域の種ほど、着床遅延が見られるようです。
上記の例のように、必ず着床遅延が起こるような種は、温帯のように季節変化が大きい場所に生息していることが多いです。
日本に住んでいると分かるように、温帯は季節変化が非常に激しいです。
しかし一方でそれは、予測可能性が高い変化です。
冬にエサはなくなるけれど、秋にはそれが豊富になる。
このように変化が一定である環境では、どの季節に出産するのが最も適応度が高い(=多くの子孫を残せる)かということは、かなり選択されやすかったのではないかと思われます。
そんな時、日長などその時期その季節特有の刺激で胚の発育が止まる着床遅延は、生存率が高くなるような季節に子が生まれるような時期に着床できれば、その動物にとって有利です。
しかし、動物によってはクマのようにそんな時期ぴったりに交尾できない種もいるかもしれません。
そんな時、着床遅延は非常に意味あるものとなるはずです。
着床遅延に関しては、そのメカニズム、着床を誘発する刺激、適応的意義等、未だに完全には解明されていないことが多いですが、少なくともこの生理機構に進化上有利な点があったからこそ、自然淘汰の網をすり抜け保存されてきたと言うことはできるでしょう。